KurokiTec
自動車の板金工場からはじまり、親子3世代に渡り受け継いできたクロキテック。長年の歴史から紐解く、ものづくりの轍を辿る。
1952年
すべては、ここから。
現代表の父、黒木恒(写真:左)が黒木鈑金として創業。主に電気自動車のボディーを製作。
1953年
自動車ボディー製作の鈑金技術を買われ、遊園地用の乗り物の製作開始。
1955年
遊園施設の需要増大に伴い、遊園施設乗り物の製作に専念。
1969年
EXPO’70のエキスポランドの乗り物を多く受注、黒木テック工業株式会社設立。
1970年
エキスポランドの成功による、遊園施設乗り物の需要増大に対応し、工場を増築。
1978年
乗り物の大型化と量産化に対応すべく、本社工場を伊丹市池尻に移転。
1979年
従来の素材に加えて、FRP素材を用いた乗り物製作を開始し量産にも対応。
1981年
塗装の品質アップと天候に左右されない大型乾燥ブースを設置。
1987年
隣接の土地を入手、計900坪の敷地となり、超大型乗り物や大量生産に対応。
1993年
3階建事務所を新設。
大人数の打ち合わせ会議にも対応。
高度成長の時代
1952 ~ 1994
自動車修理で体得した鈑金技術を生かして電気自動車のボディー製作することで創業。鈑金技術を遊園地の乗り物づくりに転換して、日本の遊園地産業を乗り物分野で活躍。昭和45年日本万国博覧会EXPO’70のエキスポランドの多くの乗り物を受注し法人化。
EXPO’70の大成功が、博覧会ブームを巻き起こし、博覧会には必ず遊園地が併設し大盛況。新しい遊園地やテーマパークが各地に続々と出来て、宙返りコースターやバイキング等の絶叫マシンブームは、人々をスリルの世界へ。
当社も工場を移転拡張し、製作能力を倍増、連日の残業、休みは盆と正月だけでフル回転の時代。これがバブルだとは、誰も気がつかなかった。更に移転拡張の話もあったが、危機一髪移転するのを断念。更に移転拡張していたら、今の当社は無い。
1995年
自然の猛威「阪神淡路大震災」
1月17日午前5時46分、
阪神淡路大震災により、事務所・工場が半壊。
2002年
自社製品の「Water Shot」を開発、乗り物に水鉄砲を搭載し話題に。
2004年
黒木テック工業株式会社のホームページを自社制作で開設。
遊園施設業界淘汰の時代
1995 ~ 2007
バブル崩壊後、阪神淡路大震災で、一気に沈滞ムードを加速。それでも、新しい遊園施設機械を入れたら人は来ると信じていた遊園地は設備投資をした。
設備投資はしたものの売上げは上がらない。過大な設備投資をした遊園地は、相次ぐ倒産、閉鎖。当社の仕事量も年々減少。特に関西の遊園地は、軒並み減少。遊園地だけではなく、メーカーも相次ぐ倒産。更に追い打ちをかけたのは遊園地の事故。
そんな中、遊園地には、バブル期に作られた絶叫マシンばかりで、小さな子どもたちが乗る乗り物が無いと聞いた当社は、小学校低学年までの子どもをターゲットに水鉄砲を搭載し乗り物に乗って的を撃つとキャラクターがリアクションする「WaterShot」を開発し話題となった。
2008年
新時代、未来への開拓へ。
後継者の黒木侯次が代表取締役に就任し、創業者の熱き思いを継承。
2010年
インテックス大阪“中小企業総合展 2010 in Kansai”に初出展、他業界にPR。
自社製品第二弾、親子でドライブゲームする「アニマルランド」を開発。
2011年
ひょうご産業活性化センター様から「成長期待企業」として選定。
経営革新計画承認(販売促進目的での遊園施設委託営業)ポルトヨーロッパにアニマルランドを設置、得意先と共同委託営業を開始。
2012年
ひょうご産業活性化センター様で技術・成長性評価報告書/知的資産経営報告書
中小企業基盤整備機構様から専門家派遣、全12回で全員でビジョンを創る。
ごきげんライフスタイル よ~いドン!「となりの人間国宝さん」コーナーにて黒木テック工業が紹介されました。
Pick Up
「とっくりん」誕生
清酒発祥の地 伊丹のまちなかを盛り上げるため開催された『伊丹まちなかバル』にて、地元貢献・協力のため、とっくり型三輪自転車「とっくりん」を製作。
2014年
“国際フロンティアメッセ2014”に、当社の技術見本としてスチームパンクバイクを出展。
2015年
インテックス大阪“中小企業総合展 2015 in Kansai”にスチームパンクバイクを出展。
朝日放送(ABCテレビ)「ココイロ」にて黒木テック工業が紹介されました。
2024年
ものづくりの100年企業を目指して
3代目として黒木康平が事業承継し、代表取締役に就任。創業100年を目指す。